昭和49年03月17日 特別奉修委員                      


 芝居の本を見せて頂いておりましたら、読者欄の所にこんな事が出ておりました。東京の方ですけれども、大変お芝居が好きな方です。最近歌舞伎座へ参りますと、三階席に学生さん方がその見物する人が多くなった。ま大変嬉しい事だというわけなんですね。同好者が増えて来たというわけなんです。しかも若い人の層にそれが出来て来たと言う事が、本当にあの嬉しいと思うと。
 私もまあそういう芝居好きのまあ、学生さん達から見ると、先輩になる訳なんだけれども、自分の所に自分は何処どこの、こうこういうもんだけれど、あのお芝居の話に皆んな出て来てくれないかと、まあお話を芝居の研究をしようじゃないかと。そして三等席で良かったら何人見えても、あの招待券を差し上げたいと書いてあった。私はそれを読見ながら、本当に御道の信心者の中にもそういう人達が、やっぱ出来て来なければいけないと思うですね。本当に信心が好きというかもう信心が有難い。
 いやもう絶対のものだと分かれば解る程。それが信心のない人達にも、特にほんなら若い人達の層に、そういうあの信心の求める同好の人達があるとするなら、もうそれこそもう電車代ぐらい僕が出してやるから参りなさいと。車僕ん所の車使っても良いよとね。と言う様なね。もうお参りをさせて頂くのならね、もうそう言う事に本当に惜しげあしげなしに出来れるだけのまあいうなら、そのまあ条件ですたいね。
 所謂なすといえ成し得る条件というものが、恩恵の中になからなければ出来ないから、出来ませんけれども、その恩恵も条件も揃うておりながらね、只自分だけの信心で終っとる人がどの位あるか解らん。神様の有難い事も段々解っておかげも頂いておるのだけれども。それを本当にあの同好の士に呼び掛けて。それでなくてもほんなら俺もいっちょ芝居見て見ろうかと。好かんでもですね、私はあの見たいというほんなら学生が、勿論学生だけに限られとる訳ですね、それを呼び掛けとるのは。
 そういうその読ませて頂いてから、本当に私達の場合なんかもそういうお初穂だしてやるとか、旅費出してやるとかちいうのは無かったけれども、同じ様な精神状態で同じような事だったなあと思うんですよ自分で。お互い例えばほんなら折角車に乗ってお参りをした来るのだから。例えば川上さん当たりじゃないけれども、つい一杯乗せられるものなら乗せて来る。こう遠回りしてからでも拾うて来て来ると言った様なね。
 私はそういう様なあの意欲というものが信心意欲であり、最近ここで言われるその、ぼうけると言う事は、そう言う事じゃないかと思うですね。芝居にぼうけた位に好きな人に違いないですよねきっと。だから芝居の話もきっと詳しいに違いないですよ。だからあのお互い研究しようじゃなくてから、若い学生達が来たら、芝居のそのお話をしてあげたいという、いうなら好き者の方に違いないです。信心もやっぱこの好き者と言う事は、数寄と書いておるですね。数寄屋敷の数寄と書いてる。
 数寄屋敷というでしょう。あのご本の家のあの事。数奇屋所謂この数寄者にならなければいけないと思う信心も。今朝辺りの御理解を頂いておっても、矢張り天然地念と言う是はもう二十年も前に頂いたご理解なんですけれどもね。その天然地念という言葉が今日のあのご理解の中にぴったりしている感じでした。昨日総会で皆さんが班別懇談でお話されたと、それを副幹事さん達が纏めてそれを発表してましたが、もう話の内容も皆さんが出しておられるその話も見事でしたが、それを発表される皆さんも立派です。
 でその事をお礼を申させてもらってました。もう本当にもう合楽も素晴らしい人達が、段々出来てきよるなと若い人達のその中に。と、お礼を申させて頂いておりましたらね。さっきあの田中さんがあの灯台記てこの頃あの、御理解の中にあった。あの灯台記じゃないですけれども、それこそあの藁の人形に五寸釘というね、あの丑三つ時に参る。お参りしてその相手を怨み殺すと言った様な時にいうのが、やっぱあの頭の上にローソクを立てるんですね。この台を作ってその上にローソクを立てる。
 というのを頂くんです。いうならね心の光、又は頭の光頭の光というのは、もう信心の事なら信心の事がもう本当に良く解っておるというのです。頭で分かっておると。やっぱ毎日あれだけ稽古をさせて貰うて、いろんな信心の共励をしておるから、本当に私は昨日はもう、ほとほとと感心しました。皆さんが話しておられるその、話も焦点の狂ってない、それぞれに皆が。それがもう殆どの人が皆んな発表しておるでしょうが。それを又纏めておるのが、また素晴らしかったでしょう。
 だからほんなら私が、昨日も申しました様に、なら皆さんが是だけの事が、自分の物になって折るのじゃないけれども、それへ向かって焦点を間違えずに進んでおられるということだけは事実であり、有難いんだと言う事なんです。だから有難いとこう思うてお礼を、申させて貰よったらその丁度その、そういう頭の光という意味の事を頂いたです。だから皆んなが解っておるというだけで、自分の物にはなっていないと言う事なんです。信心はどこまでも、勿論頭の光から入ってもいいです。
 けれども先ず心の中に頂くのが光。どんなにそれこそもう一遍にぱっと停電した様に、真っ暗になる様なあれでも、スイッチ一つぱっと押したら、自家発電というですかね。ここの新館の方なんかも、どんなに停電致しましても消えると同時に、ばぁっと電気が点くです。だからもう新館の方だけは全然暗い思いはしません。そういう言うなら設備が自分の信心の心の中に出来ておる、おかげを頂かにゃいけん。それが心の光だと思うです。おかげを頂きましてね、例えば頭だけで解っておるとね。
 もう必ず人を責めます。又は是は例えていうなら行儀作法なんかの、お茶なんかをしてから出来た人がね。今度は出来てない人達を見るとね、まどうして行儀の悪い人じゃろかとこう思うです。その思いがすでに相手をいうならば殺す様な念になるんです、積り積もって。して見るとだからあんまりただ信心を抜きにしてからの、いろんな事ば会得したり、覚えたりするのはいけませんね。必ず見下げるです。頭が良かつが頭の悪かつば見ると、はぁぼんくらどんがとこういうです。
 ほんなら行儀作法が身に着いておるとです。まあどうした行儀の悪い人じゃろかというて、そう思いがね。良くない思い、念ですからその念が貯まり貯まって、人を傷付けたり人を暗い思いをさせたりする、いわゆる高ぶった姿になるんです。だから信心も同じ事です。この御理解は有り難かった、こういう御理解じゃったと思うて帰る。そすと家の嫁ごやら、家のほんならお参り、信心の無い者がね、その今日頂いて来た御理解とはまったく、反対のごとしよる。
 もう今日の御理解はこうやった、そげな事してからとこう例えばいうとするか、ね。また思うとするか。そんならばそれはもう、それは悪念ですから、ちょうど言うなら、人を呪い殺すとまでは行かんにしてもです。いわゆるそういう念が積り積って、悪い結果を呼ぶ事になるのです。ですからどうでも一つあのね心の光。もう本当に言わんでも語らんでも、着いていかねば居れない程しの心の光。あの人がここにおるだけで明るうなるという様なね。光を求めなければならない。
 それにはね矢張り、私は本当にぼうけると言う事はどう言う事かと。信心の御教えを頂いて、その教えを行ずる事にぼうける事なんです。今日久保山さんが言っておられます様に、もう最近はもう言う事じゃない。もう思ってもですそれはもう決して言わん。そしてこの人達の鏡にならせて貰わにやとこう思いよりますとこういう。だからもう本気で押し頂いて、朝の御理解を頂いてそれを仕事の上に現して行く。そしたらおかげを頂いて子供達がお参りする様になり、娘もお参りする様になり。
 最近はご主人が病院にずっと通い、通いよんなさるちいうが郵便局に勤めておられますから、郵便局の直ぐ隣が病院です。そこでずうっと何か治療を受けておられる。所がいっちょん効かんがねと、薬がいっちょん効かんというて話される。もう主人が御神米を頂いてくれるね、そのもう寸前にあるというわけなんです。本当にです、いわゆる鏡になろうという、そういうね私はあの信心。
 それは本気で教えを行の上に現さなければいけない。信心しよってから、もうそげな事してから。先日の十三日会の時でした。あの誰が持って行くか知らんけど、あの家でなんちいうですか、あの五目を焼くところがあるでしょう、あの中にそのビール瓶やらね、サイダー瓶やら缶詰のからやら入っとる。誰がしよんなさるか知らんばってん、もうちょっとあきれたという、この頃十三日会のお掃除に来た人が、いう
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